1969年12月9日生まれ。ブエノスアイレスの演劇学校を卒業後、舞台俳優に。舞台演出も手がけた後、アメリカで映画作りを学び脚本家として活躍後、05年に短編映画『El Loro』(未)で監督デビュー。2011年に長編初監督作品『Juntos para Siempre』(未)を発表。本作は長編2本目となる。
第2次世界大戦中、ホロコーストから辛くも逃れた生き延びた88歳の老人。彼が、命の恩人との約束を果たすためにブエノスアイレスからポーランドへと向かう旅路を描いたロードムービー『家へ帰ろう』。
様々な人々の善意に触れてかたくなだった心をほぐしていく一方、70年の時を超えて壮絶な過去と向き合う主人公……。自身の祖父の物語をもとに本作を作ったというアルゼンチン人監督、パブロ・ソラルスに、映画に込めた思いについて聞いた。
監督:私の祖父はポーランドで生まれ、6歳の時にアルゼンチンに移住し、祖父の父の後を継いでアルゼンチンでも仕立屋をしていました。私が、5、6歳の時、祖父はポーランド人だと聞いたのですが、なぜか家庭では一切その話題にならない。ある時、私は、祖父の家で食事をしている時にふと「ポーランド人なの?」と聞いたのです。すごく緊迫した空気が流れ、沈黙が続き、祖父に睨まれました。その空気は、今でも覚えています。悪いことをしたような罪悪感にかられながら、祖父の前では「ポーランド」と言ってはいけないのだと理解しました。
本作を作るにあたり、どこからインスピレーションを得たのかと問われれば、このように答えています。一言でいうと、「沈黙」です。
「ポーランド」という言葉をなぜ祖父が聞きたくなかったのか、理由を知ることができない期間が長く続いた。「沈黙」が続いたんです。祖父は苦悩を語らず、両親は祖父の苦悩をあまり知らなかったので、誰も私に語ってくれる人はいなかった。祖父はそのことを一言も話さず、残念ながら90年代に死去しました。23〜25歳の時に、私が演劇から映画に方向転換したのを、祖父はすごく喜んでくれました。祖父はずっと映画が好きで、僕を応援してくれていたので、本当はぜひ、この作品を見てほしかった。
10代になるとポーランドという国や文化に対して少しずつ興味が出てきて自分で調べるようになり、祖父とは違う視点で見られるようになってきました。祖父にとってポーランドはただ苦痛な場所だったのかもしれません。祖父のポーランド観には、理解できても共感はできない部分もありました。でも、私は知識を深めていくうちに、祖父とは違って、ポーランドという国を身近に感じるようになっていきました。
監督:ありませんでした。両親も、祖父母がポーランドでどんな生活をしてきたのか知りません。興味がなかったというのもありますが、祖父の苦悩、苦痛は怒りを生み出し、怒りを感じると苦悩、苦痛を隠そうとするという悪循環で、家族の中で話題に挙がることがなかったからです。戦争体験を乗り越えるには、痛みを切り離し、忘れなければ生きていけません。子どもに聞かせるには悲しい話ですし。だから劇中、アブラハムが自分のストーリーを誰かに伝えるに至ったのは、とても大切なことだと思っています。
父方の祖父は亡くなりましたが、ポーランド人ではないけれどユダヤ人である母方の祖父は95歳で健在です。「ドイツの地を踏みたくない」というアブラハムのエピソードは彼の言葉をヒントにしています。彼は、この映画の公開日に見に行ってくれました。それからは毎週日曜日に劇場へ足を運び、劇場の方やロビーに出てきた観客に、「これは僕の孫の作品なんだ」と自慢気に話していたようです(笑)。「もしドイツでこの作品が公開されるなら、ぜひドイツに行って見たい」とも言ってくれました。
監督:父もモデルになっています。90年代、僕がメキシコで演劇の仕事をしている時に、訪ねてきた父と皆でメキシコ屈指のアートの町、サン・ミゲル・デ・アジェンデに行ったんです。父はホテルのスタッフに、「来年の夏、40人のツアーを連れてくるからディスカウントしてくれ」と値切りました。本当に父は旅行業を営んでいました。アブラハムがスペインのホテルで同じ行動を取るシーンは、それをヒントにしています。
家族総動員というのがそこがユダヤ人っぽいところですね。
監督:ええ、メイクはほんの一部であって、キーは彼の声やしゃべり方、アクセントなどでした。彼は映画の中で、実際とは異なるアクセントのスペイン語で話しています。それらすべてを完璧にこなす彼を演出するのは、天才にアドバイスしているような気分でした。
監督:当初は役よりも若い人を選ぼうとしていたため、60代で探していましたが、彼は最初から第一候補でした。幼い頃から私は、彼の演技をテレビで見てきましたが、信念を持って役に挑むところがなにより素晴らしいと感じていました。彼は役者としてちょっと気難しい部分もありますが、素晴らしい人間性の持ち主。よりよい世界を創り出したいという思いを抱きながら演じており、そんなところをリスペクトしてきました。彼に脚本を送った時は、決して信心深いほうではありませんが、祈りました。彼が脚本を気に入り、続いてアンヘラ・モリーナやほかの役者も素晴らしい人々が集まってくれた。彼が引き受けてくれたのは、本当にラッキーだと思っています。
監督:スペインにキャスティングに行った際、ミゲル・アンヘル・ソラと同じように脚本を気に入り、引き受けてくれたことを光栄に思っています。彼女はスペインの大スターなので、まさかと思いました。それも主演じゃないのに。
撮影初日、午前の撮影が終わったところでアシスタントディレクターが、「アンヘラが近くのバーで怒って泣いている」と私を迎えに来ました。バーに行ってアンヘラに理由を聞くと、「ミゲルはちゃんと顔が映っているのに、私は頭しか映っていない。もう午後は出演したくない」と言われてしまいました。私はアンヘラに、「これまであなたは100本以上の映画に出演してきましたが、僕はまだ2本目。午後は必ず顔を写すので、ぜひ出演してほしい」と言って、「1日の終わりにもう一度話し合ってなにか問題があれば解決していきましょう」と提案しました。
アンヘラに、「今までに組んだ監督で誰が一番やりやすかったか?」と聞くと、「ブニュエル」と答えました。「毎日、撮影が始まる前に、どういう画が欲しいか明確に説明してくれた。1テイクで撮り終え、撮影後は満面の笑みでOKと言ってくれた」。それがやりやすかったんだそうです。「僕もそうします」と答えたら、「いや、それは信じられない。あなたがブニュエルになれるとは思わない」と言われてしまった(笑)。「彼は台詞を完璧に覚えて来ないと受け付けてくれないの」と彼女が続けたので、「じゃあ、僕の脚本をもう一度見直して、台詞をちゃんと覚えてきてくれますか?」と提案したのです。その日の午前中に撮ったシーンは、ちょっとセリフが曖昧だったので。「そうしてくれたら、欲しい絵を明確に説明し、1テイクで、笑顔でOKを出します」と。それでも彼女は「信じられない」と言っていましたが、翌朝5時45分にホテルの下に食堂に行ったら、彼女は脚本を広げ、自分の台詞に線を引いて一生懸命覚えていました。
スタンバイしている時に、アンヘラがアシスタントディレクターを呼んで、再び私と話したいと言ってきました。彼女のもとに行くと、「時々なんだけど、ブニュエルも2テイクでOKの時があったわ」と。
監督:ええ。祖父が生まれ育った地域です。実際にウッチの市役所に行って祖父の住んでいた家を調べ、割り出してもらった場所です。撮影した家は、実際に祖父が住んでいた家ではありませんが、見た目は同じだし、同じ建築家の手掛けた建物ですし、あのブロックに住んでいたのは事実なので、私としては祖父の家と同じくらい感慨深く思っています。スクリーン上に祖父の生まれた場所を映し出すというのは、私にとって、とても意味のあることでした。よりエキゾチックな景観の街で撮影してもよかったのですが、祖父の出身地であるウッチで撮影することにこだわりました。役者にも撮影スタッフにも自分が感じていることを話し、共有してもらいました。それはスクリーンを通し、観客にも伝えたかったこと。そういう意味でもあの場所は大切なのです。
監督:アンジェイ・ワイダ、クシシュトフ・キェシロフスキですね。好きな映画は、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』です。
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