1979年、愛知県生まれ。制作会社にてドキュメンタリーから、音楽、スポーツ、超能力番組まで、幅広くテレビ番組の演出・プロデュースを手掛けた後、2010年、NHKに入局。2013年、『狸な家族』の演出をきっかけにドラマ制作に転じ、以降、一貫してNHKにてテレビドラマの演出を手掛けている。主な演出作に、大河ドラマ『おんな城主直虎』(17年)、『透明なゆりかご』(18年)、『サギデカ』(19年)、2020年2月スタートのNHKよるドラ『伝説のお母さん』など。本作が劇場映画初監督作品。
荻野谷幸三、64歳。普段は歯科技工士として働く彼がひそかに情熱を燃やしているのは、エキストラとして映画やドラマに出演することだ。そんなある日、荻野谷は山本耕史主演の時代劇に参加することになるが、萩野谷に密着するドキュメンタリー番組のカメラがさまざまな真実をとらえ始めたことで、事態は思わぬ展開に!
無名のエキストラが主演、山本耕史、斉藤由貴、寺脇康文など主役級の役者が共演する『エキストロ』は、どこからが演技でどこからが本当かわからないモキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)・コメディだ。監督は、2月からNHKで放送されている前田敦子主演のドラマ『伝説のお母さん』で演出を担当している村橋直樹。本作が劇場用映画初監督作品となる村橋に、モキュメンタリーならではの撮影秘話を聞いた。
監督:大河ドラマの助監督をしていた頃、さまざまなエキストラさんと出会いました。アクションスターを夢見る俳優志望の若者、付き合いで嫌々参加する町内の顔役、画面に映ったことをスナックで自慢するのが趣味のおじさん、セカンドライフとして撮影を楽しむ大企業の元社長など。撮影という目的以外に共通点のない彼らが集まった場には、ドラマの匂いがしました。つまらない助監督業は放っておいて、彼らを観察していたのを覚えています。30m向こうではスターたちが燦然と輝く大河ドラマを撮っているのに、私は名もなきエキストラさんの人生を見つめている。このカメラポジションの逆転が、この作品を生みました。しかし、ダメな助監督ですね。
監督:フェイクドキュメンタリーとして、誰も演じていない(ように見える)空間。それを実現できる方々に集まってもらいました。セリフを決めずに設定の中でアドリブを演じる“エチュード”が得意な舞台系の俳優さんや、演技経験はほぼなくても即興で出る言葉が面白いミュージシャン、芝居っ気のある本当の助監督やスタッフなど、HPやポスターのクレジットに載らない人たちがこの映画の空気を決定付けています。その意味で、会心のキャスティングだったと思います。
そして、大林宣彦監督をはじめ、山本耕史さん、斉藤由貴さん、寺脇康文さんら実名キャストに関しては、わけのわからない空気の中に身を投じてくださった勇気に感謝しています。私なら出ません。ちなみに、「つくばみらい市長」役は、本物の現職市長です。市内の酒場で出会い、冗談で「出ませんか?」と言ったら本当に出てくれました。ええ、私なら出ません。
監督:この映画には大勢の方が関わってくださいましたが、私がこの映画の監督だとわかっていた人は半分に満たないんじゃないでしょうか。なぜなら、私は監督でありながら、現場を仕切ってはいないし、モニターを覗いてもいないし、「よーいスタート!」と役者に芝居をつけたりしなかったからです。まずは、劇中劇である「江戸の爪」というドラマ撮影の現場の一日を再現し、準備や扮装、撮影までのプロセスをリアルタイムな空間で作り上げたのですが、それを仕切っているのは私ではなくて劇中劇の監督役の人間でした。彼は普段、本当にドラマを監督している方です。そして、この映画の監督である私はといえば、まるでメイキングカメラのように、こそこそとその場で起きることを隅っこから切り取って撮影していました。主演の萩野谷幸三さんについても、直接芝居をつけることはなるべくせず、劇中劇の監督や助監督たちにインカムで「萩野谷さんに怒って」などと指示をして、間接的に芝居を引き出していく方法をとりました。ある種、“どっきりカメラ”を際限なくやっている感じで、萩野谷さんも「人生で一番脳みそが疲れた」とおっしゃっていました。山本さんにもその空間の中で自由に遊んでもらっているし、カメラマンにもあえてあまり情報を与えず、現場で起きたことを本能的に切り取ってもらっています。俳優やスタッフにも脚本は読んでもらいましたが、“内容をキチンと飲み込んでもらったうえで、そのことをみんなが忘れている空間”というものを作り出すことに腐心しました。そのためには、“監督という存在である私”を現場から消し去る必要がありました。自分の存在が表に出ないまま思惑通りに動いていく現場を見ながら、政財界において“No.2”とか“陰のフィクサー”などと呼ばれる人々の愉悦はここにあるのだろうなぁ、とひとりほくそ笑んでいました。
監督:“監督である私”の存在を消すことです。それが最大の難点であり、作品の成否を分けるポイントであったと思います。私は普段テレビドラマの演出(監督)をしていますが、監督という職業は、方向性を明示し、100人を越えるスタッフや俳優を導く船頭のような存在だと思っています。しかし、この映画において、その存在は邪魔にしかなりません。“監督の意図”に沿って動くことによって、スタッフや俳優に“作為”が生まれるからです。
フェイクドキュメンタリーである以上、“監督の意図”の匂いを消しながら、意図、つまりは脚本に沿ったドキュメント空間を作り出す必要がありました。例を挙げると、撮影初日、スタッフたちが劇中劇撮影の準備のために機材を運ぶシーンを撮りました。私はいつものように「よーいスタート!」とコールし、スタッフたちは機材を運びましたが、なんともしっくりきません。彼らは本物の撮影スタッフですが、いつものように前日の酒が残っている感じや、一日の長い撮影が始まる気怠さが出ていなくて、兵隊の行進のようなのです。当然NGを出し、彼らには機材を持って元の場所に戻ってもらうことにしました。その刹那、私が撮りたい画が目の前に現れたのです。気怠そうに機材を元に戻すスタッフたち。すぐにカメラをまわし、本編ではここを使いました。そうして私は、この映画の撮影方法をつかんだのです。彼らに演技をさせてはいけない。「よーいスタート!」という言葉で始まる非日常の空間を作ってはならない、と。
監督:エキストラという名もなき人々にスポットライトを当て、人生の喜びを謳う人間讃歌。宣伝文句としてはこれが一番美しいのかもしれません。もちろん企画の出発点はそうだし、その想いを込めて作ったつもりです。萩野谷さんからあふれる、演じることへの想いや言葉、喜びは、本物が映っていると信じています。嘘をたくさんついた映画ですが、この気持ちに嘘はありません。
その上で、少しメタ的になりますが、我々テレビ制作者たちは今後、どのような表現が可能なのか、という問いかけもしたつもりです。昨今、テレビにおける演出というものが寒風に晒されていて、演出過多な番組やMCは淘汰され、適度に力の抜けた番組が求められています。そもそもテレビや映画は見ず、お気に入りのYouTuberのまったりとした日常を見つめ続ける若者も多いでしょう。この現状を憂うテレビ屋の一人として、“演出とは何か”を馬鹿なりに考えながら作りました。
フェイクドキュメンタリー自体は、モンティ・パイソンや『スパイナル・タップ』の頃からある手法ですが、演出というものに見る側が敏感になっている今の日本だからこそ、違う使い方があるのではないか、とも思っています。脚本の後藤ひろひとさんも仰っていますが、日本はかつてフェイクドキュメンタリー大国でした。『川口浩探検隊』『矢追純一スペシャル』『徳川埋蔵金』……。これらのフェイクドキュメンタリー群を視聴者が、「ウソつけこの野郎」と笑いながらワクワクしてテレビを見てくれていた時代があったのです。
今はあの時代とは違い、テレビの嘘はバレてしまっています。その上で、我々はどのような表現があるのか模索し続けていかなければなりません。今、視聴者の心がテレビから離れているのは、我々制作者の表現への怠惰が原因ではないのか。視聴者側の感度を甘く見てきたことへの罰なのではないか。「TV director’s movie」という企画で作られた映画だからこそ、テレビに想いを馳せながら作ったつもりです。
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