訃報が届き、聴きたくなったのは…
4月2日の21時過ぎに坂本龍一さんの訃報が届いたあと、最初に聴きたくなったのはYMO時代の「Perspective」という曲だった。なぜ「戦場のメリークリスマス」でも「ラストエンペラー」でも「東風」でもなく、「Perspective」だったのか。それは、とにかく坂本さんの〈声〉が聴きたいと思ったから。
・【日本の映画音楽家】映画音楽家・坂本龍一のキャリアは『戦場のメリークリスマス』から始まった
「Perspective」は第1期YMO(1978年~1983年)の最後のオリジナル・アルバム『Service』の終盤に収録されている英語詞の楽曲だ。作詞は坂本龍一とピーター・バラカンの共同名義、作曲は坂本龍一。YMOの歌ものの曲と言えば、高橋幸宏さんが歌う「君に、胸キュン。」や「以心電信」がよく知られるところだが、この曲では作曲者である坂本さん自身がリード・ヴォーカルを担当している。
Every day I open the window
Every day I brush my teeth
Every day I read the paper
Every day I see your face
といったように、「Perspective」の歌詞は“Every day”で始まるシンプルな日常的行為の羅列で構成されている。全キャリアを通して見ても歌ものの楽曲は少なく、自身で歌詞を書いた曲となるとさらに少ない。本人もたびたび「歌詞に興味がない」「(人の曲を聴いても)歌詞が頭に入ってこない」と語っているのを目にしたことがあるけれど、この曲は極限まで贅肉が削ぎ落とされた俳句のような詞とピアノの切ないリフレインのコントラストが、聴き手の深読みや解釈をどこまでも懐深く許容してくれる。「Perspective」は、基本的には歌詞を書かない“作曲家”の坂本龍一が、最も“シンガー・ソングライター”に接近した瞬間の記録かもしれない。
『12』は、最も根源的な〈私〉が刻まれた作品
「僕を知ってもらうためには、僕が歌わなきゃいけないと思った。僕の肉声は、僕の最も私的な部分かもしれないから」
1990年のツアーの様子を収めた1991年のドキュメンタリー作品『Ryuichi Sakamoto Beauty Tour ‘90』の中で、坂本さんはそう語っている。しかしその発言に反して、坂本さんは2000年代に入って以降、自身が歌うオリジナル楽曲をほとんど発表していない。それどころか、ライヴでは「Perspective」ほか「美貌の青空」や「Tango」といった歌もののレパートリーを演奏する際も、おしなべてヴォーカルレスのアレンジに変更している。声量があるわけではないし、音域が広いわけでもない。けれども坂本さんのヴォーカルに、アントニオ・カルロス・ジョビンやバート・バカラックのそれと同じソングライターズ・ヴォイス的な味わいを感じていたファンは少なくなかったはずだ。2014年から断続的に始まった闘病生活の影響もあったに違いないが、せめてもう一度ぐらいピアノを弾きながら自作曲を呟くように歌う坂本さんの姿を見たかった。
71歳の誕生日にあたる2023年1月17日にリリースされた生前最後のアルバム『12』には、療養期間中に体調を見ながらピアノやシンセサイザーで演奏されたサウンド・スケッチ的な楽曲が、タイトル通り12曲並んでいる。もちろんここにも歌はまったく入っていない。しかし、このアルバムで聴けるいくつかの曲には、坂本さんの呼吸音やピアノのペダルを踏む音が生々しく記録されている。先述のように、かつての坂本さんは自分の肉声を“最も私的な部分かもしれない”と言ったが、もしかしたらこの『12』というアルバムは、歌とか声よりもさらに根源的な〈私〉が刻まれた作品ではないかと思う。闘病で衰えた様子を隠すことなく、弱々しくも一定のペースで呼吸を繰り返す坂本龍一が、ここでは確かに生きているからだ。
坂本龍一が蒔いた種を見届ける
直近では4月14日に音響監修を担当したハイエンドシアター、109シネマズプレミアム新宿がオープン。「Ryuichi Sakamoto Premium Collection」と題されたスペシャル・プログラムが、約1ヵ月にわたって開催される。6月には、音楽を担当した是枝裕和監督の新作『怪物』の公開も控えている。音楽家であると同時に、思想家であり行動家でもあった坂本さんの蒔いた種は、音楽や映画の領域だけに留まらない。今後も我々は喪失感を覚える間もなく、至るところで坂本龍一の名前を聞き、生前の活動が実を結ぶ様子を目にするだろう。そのたびに「教授と同じ時代に生きることができて、本当によかった」と思えたら、そんな嬉しいことはない。
坂本龍一さん、ありがとうございました。
(伊藤隆剛/音楽&映画ライター)
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