『ブルーに生まれついて』
トランペット奏者としてのみならず、甘いマスクと歌声で「ジャズ界のジェームズ・ディーン」と1950年代にもてはやされ、80年代にブルース・ウェーバーによるドキュメンタリー映画『レッツ・ゲット・ロスト』公開直前にアムステルダムのホテルで転落死した伝説のミュージシャン、チェット・ベイカーを描く『ブルーに生まれついて』。タイトルは彼の代表曲の1つ「Born to be blue」から取っている。
・【この俳優に注目】ナニーとの浮気騒動から再浮上、我が道を行くイーサン・ホーク
人気ミュージシャンがドラッグにはまり、それにまつわるトラブルで殴られ、前歯を折る重傷を負う。唇にも傷を負い、キャリアに致命的なダメージを受けて落ちぶれた60年代後半からの数年間を演じるのはイーサン・ホークだ。顔も声も実物とはそれほど似てはいない。似せようともしていない。だが、彼以上に適役はいない。そのアプローチは『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でジョニー・キャッシュを演じたホアキン・フェニックスに近い。外見ではなく魂を近づけていく。
彼は映画で相手役を演じた女優・ジェーンと恋に落ちる。彼女は怪我とドラッグ依存でどん底に落ちたチェットの再生に寄り添い続けるが、このジェーンという女性も実在せず、彼が関わった女性たちから着想を得た架空のキャラクターだ。そもそも生前のチェット・ベイカーが語る身の上話は毎回違っていたという。事実は曖昧だが、真実は1つ。主人公が、劇中劇で主人公自身を演じるというトリッキーな要素も組み入れた構成で、チェット・ベイカーの伝説を借りた、芸術家にとっての幸福と不幸に迫る作品というべきかもしれない。
ドラッグの誘惑にさらされ、ゼロどころかマイナスからのスタートを切るチェットは文字通り、血の滲む努力を重ねてトランペット奏者としてカムバックを目指す。献身的な恋人に見守られ、失った信用を少しずつ取り戻し……といういい話なのだが、やはりそのままめでたし、とはならない。ある時点でチェットは「自分の人生を取り戻したい」と本音をさらけ出す。
素晴らしい作品を生み出すために芸術家は不幸でなければならない、という考え方がある。それは必ずしも真理ではないが、健全な魂からは決して生まれない芸術は確かにあるのだ。芸を極めたいストイックな求道者でありながら、同時に身を滅ぼす誘惑から逃げられない。矛盾する心を、ここではこれという答えを提示せずにありのまま見せていく。
ホークが本作の脚本を読んだのは、尊敬していた友人でもあり『その土曜日、7時58分』で共演したフィリップ・シーモア・ホフマンの葬儀から1ヵ月後だったという。『カポーティ』でアカデミー主演男優賞を受賞した演技派のホフマンは2014年2月、薬物過剰摂取で亡くなった。薬物依存、不安と背中合わせの自信をつぶさに描いた脚本との出会いを「偶然とは思わない」とホークは振り返っている。彼が尊敬していたもう1人の俳優、デビュー作『エクスプロラーズ』で共演したリヴァー・フェニックスもまた1993年に薬物過剰摂取で夭折している。
ホーク本人はといえば、再婚した妻と子どもたちと暮らしている。類い稀な才能を持つ者が抱える孤独を間近に見て理解している彼自身は、チェットではなくジェーンのような人間なのだろう。だからこそ、姿かたちではないチェット・ベイカーの精神がにじみ出るような名演が生まれたのではないだろうか。
全編にチェット・ベイカーのレパートリーだったジャズの名曲が流れるが、オリジナルの音源ではない。本来、ベイカーの「Born to be blue」といえば、インストゥルメンタルではなく彼が歌っている。だが本作で流れる同曲に歌はない。その歌詞には、ベイカーよりもヒロイン、ジェーンの心情を表すような一節(I guess I’m luckier than some folks, I’ve known the thrill of loving you)があるのだが、言葉が消えてメランコリックな旋律だけになった曲は、ブルーに生まれついた人生を取り戻したチェットを表しているかのようだ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『ブルーに生まれついて』は11月26日より全国公開。
冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。
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