パワフルで不遜なマエストロの転落を描くサイコ・スリラー
【週末シネマ】今年のアカデミー賞6部門にノミネートされた『TAR/ター』は、ケイト・ブランシェット主演という配役なくしては成立しないであろう一作だ。
アカデミー賞を2度受賞し、現代最高の俳優にして華やかなスターである彼女のペルソナは、本作の主人公リディア・ターの「女性初のベルリン・フィル主席指揮者。EGOT(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞=オスカー、トニー賞全て受賞した偉業の達成者)」という設定に説得力をもたらす。
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芸術家としての自信も、周囲をコントロールする政治力も並外れたリディアは「マエストロ」と敬われてクラシック音楽界のトップに君臨している。パワフルで不遜、逆らう者は容赦なく叩きのめすが、そんな態度もまかり通るだけの実力の持ち主だ。
レズビアンの彼女はベルリン・フィルの女性コンサートマスターと結婚し、子どもも1人いる。世界を飛び回るセレブリティで、後進の育成にも熱心だが、芸術にかける情熱と誰をも見下す慢心に足元をすくわれ、揺るぎないはずの栄光からの転落が始まる。
本作はいつの間にか負のスパイラルに巻き込まれたリディアが経験する悪夢を、彼女の傍で一緒に味わうかのようなサイコ・スリラーだ。
ブランシェットに当て書きしたトッド・フィールド監督
前作『リトル・チルドレン』(2006年)以来16年ぶりの監督作を手がけたトッド・フィールドだが、当初の構想では主人公は男性だったという。ある時点でブランシェットを念頭に脚本を書き始めたフィールドは、彼女の出演が叶わなかった場合は製作を断念するつもりでいたそうだ。オファーを受けたブランシェットはコロナ禍の2020年秋からドイツ語やアメリカ英語、ピアノのレッスンや指揮の研究も重ねて撮影に臨んだ。
才能豊かでエネルギッシュなエゴイストの芸術家の物語はすでに数多く存在する。本作も男性が主人公ならば、ありきたりな内容になっただろう。女性のエンパワメントを礼賛するだけなら、それもやはり表層的なものになったはずだが、『TAR/ター』の主人公は男女で括れない「マエストロ」という怪物として描かれる。それでもなお、彼女のいる世界には性差や性的マイノリティに対する無意識の差別がないとは言い切れない。
なるべき自分に近づくほど乖離していく主人公
実在の団体や人物の名前が飛び交うが、リディアは架空の人物だ。多面的で、鼻持ちならない人物でありながら、徐々に見えてくる心の闇が微かな共感を誘う。ハラスメント、ストーキングという社会の病と現代のキャンセル・カルチャーを体現するキャラクターだ。
これは極限まで肥大した、リディアの“なりたい自分”についての物語でもある。なりたい、あるいは、“なるべき”像が明確にあり、そこに近づけば近づくほど、本来の自分から乖離していく。ブランシェットがアカデミー主演女優賞を受賞した『ブルー・ジャスミン』(13年)のヒロインをより現代的に、野心的に進化させたようにも感じる。
オスカー無冠に驚く、ブランシェットの熱演と音響の素晴らしさ
芸術の尊さと権力という魔力への執着、その滑稽さも晒すブランシェットの怪演は、長回しの撮影によってドラマティックな凄みを増す。昨年の欧米での公開当初は3度目のオスカー受賞を誰も疑わなかったが、賞とはみずものだと思い知らされる。
ブランシェットのフィルモグラフィーで今後もおそらく1、2を争う代表作になる本作がオスカー無冠に終わったこともだが、個人的に最も驚いたのは音響賞にノミネートすらされなかったことだ。音に敏感な主人公は精神的に追い詰められていくにつれて、日常の生活音にさえ過剰に反応する。見えないものを聞き、聞こえないものを見て、壊れていくリディアの姿はサイコ・ホラーであり、それを音の1つ1つが絶妙に演出している。
やがて彼女が導かれていく結末も見事。そこに何を見て取るか、観客の反応は割れそうだが、それこそがトッド・フィールドとケイト・ブランシェットが狙ったものではないだろうか。(文:冨永由紀/映画ライター)
『TAR/ター』は、2023年5月12日より全国公開中。
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