肉体は大人、脳は生まれたて、蘇生した女性の冒険を描く衝撃作『哀れなるものたち』
#アカデミー賞#ウィレム・デフォー#エマ・ストーン#マーク・ラファロ#ヨルゴス・ランティモス#レビュー#哀れなるものたち#週末シネマ
天才外科医の手で蘇った“ベラ”の数奇な運命とは
【週末シネマ】少し歳を取ってから、「今の自分に備わった知識や精神を保ち、肉体だけ若返ることができたら」と思ったことはないだろうか。ある意味、それと正反対のことが『哀れなるものたち』の主人公ベラ・バクスターには起きている。肉体は立派に成長した大人だが、知能や精神は幼児そのもの。3月発表の第96回アカデミー賞で作品賞をはじめ11部門ノミネートを得た本作は、ロンドンの天才外科医が誕生させた“ベラ”という人格の数奇な運命の物語だ。
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主人公の成長というテーマはあらゆる物語にとって王道のアプローチだが、それゆえに独創性が求められる。これは生命と性、そして成長という冒険を、こういう形で描くのかと虚を突かれる快作だ。何も理解していない、歩くことさえおぼつかない者が意思を持ち、言葉を得て、思考し選択して自らを育てながら道を切り拓いていく過程が強烈なタッチで描かれる。
ヨルゴス・ランティモス監督の長編8作目であり、前作『女王陛下のお気に入り』(2018年)でオスカー助演女優賞候補になったエマ・ストーンがベラを演じている。
敢えて詳述しないが、主人公の境遇は特異だ。ウィレム・デフォーが演じる天才外科医のゴッドウィン・バクスターによって“ベラ”として蘇生させられ、研究対象として彼の家で暮らしている彼女の脳は、生まれたての状態から猛スピードで成長中だ。そこでゴッドウィンは教え子の医学生マックス(ラミー・ユセフ)をリクルートし、自宅でベラの経過観察の記録をとるように命じる。
野生児のような成人女性を全身で表現したエマ・ストーン
大きな瞳と長い髪の成人が拙い口調で単語を繰り返し絶叫し、衝動的に動き回る様子にギョッとする。大人が赤ちゃん言葉でふざけるのとは違う、少ない語彙のせいで意思を示しきれない幼児の苛立ちを表現するストーンは見事だ。
ヘレン・ケラーとサリヴァン先生の変奏曲のような関係性を経て、マックスはすぐに知的好奇心あふれる野生児のベラの虜になる。研究者として、また父性愛からもベラに執着するゴッドウィンは、ベラを手元に置くためにマックスにベラとの結婚を促す。一方、ベラは興味を抱いたあらゆるものに突進していく。
そんなある日、ゴッドウィンの依頼で結婚契約書の作成を請け負った弁護士のダンカン・ウェダーバーン(マーク・ラファロ)がベラを誘惑する。そしてベラは「世界を自分の目で見たい」とゴッドウィンたちの反対を押し切って、ダンカンとヨーロッパ大陸横断の旅に出る。リスボン、アレクサンドリア、パリを訪れ、豪華客船の中や先々での出合いや経験を通して、ベラは唯一無二の個性を磨き上げていく。
独創的で美しい風景こそがベラの目に映る世界
独創的な美術に目を奪われる。不思議な曲線を描き、形も色も独特の風景はこの奇想天外な物語にふさわしい。実景の写実とは違う、フェリーニ映画におけるビニールの海のような引力で観客を物語に浸らせる。非現実的な世界の中に生々しい肉体や血が差し込まれるコントラストの美は鮮烈で、ベラの目に、世界はこんな風に映っているのかも、と思える。
バクスター邸でのベラは原罪を知る前のイヴのようだが、色男を自認する鼻持ちならないダンカンはアダムではない。では、ベラを安全な楽園から外に誘い出した悪魔なのか? そのどちらでもないかもしれない、と彼を待ち構えるものについて考える。一方、アダム不要のベラは齧った果実を禁断のものとせず、堂々と広い世界を歩いていく。
『バービー』と姉妹のような印象も
図らずも姉妹のようだと感じたのは『バービー』だ。無垢な心で身も蓋もない社会の現実に触れると、素直に違和感を示してポジティブに体当たりして新たな境地を拓く。しかもベラは真に人の目を気にしない自由な精神を持っている。何も恥ずかしいことがない。普通なら、子どもでももう少し大人の顔色をうかがったり、こんなことをしては恥ずかしいと躊躇うものだが、彼女は全く気にしない。無防備にあらゆる境界を突破し、学び、聡明さを深める彼女は社会の矛盾や思い込みに鋭く突っ込みながら、世間の思い込みを次々に覆す。
エマ・ストーンも、『バービー』主演のマーゴット・ロビーと同様に本作のプロデューサーを務めている。
哀れとは別に、愚かなるものの役割を担うのが、ベラの“哀れ”な境遇を利用しようとした者たちだ。いつしかベラに翻弄され尽くすダンカン、実験を言い訳に創造主を気取るゴッドウィン、他にも先入観と支配欲にあふれる傲慢な愚か者だらけだ。
その中でゴッドウィンの異形にまつわる物語はベラと重なるものだ。実験台にされて、実験という行為の美しさを理解し、自らも実践する。
過激描写が多いながらも、ベラの表情に心洗われる
第96回アカデミー賞では監督、脚色、撮影、編集、衣装デザイン、メイクアップ&ヘアスタイリング、作曲、美術の各部門に加えて、ストーンが主演女優賞、『欲望という名の電車』のスタンリーが憑依したような一瞬を見せたラファロが助演男優賞にノミネートされている。
ハンナ・シグラ、キャスリン・ハンターといった老練の名優がベラに影響をもたらす印象的な役を演じているのも忘れ難い。
過激な描写も遠慮なく頻出するが、これもまたベラの視点を介して見るように感受した。壮大な冒険を続けるベラの表情が、冒頭からどんどん豊かなものになっていく様に心が洗われる思いだ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『哀れなるものたち』は、2024年1月26日より全国公開中。
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