夫を転落死させたのは妻なのか? “落下”と“失敗”の解剖を試みる秀逸な心理劇
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アカデミー賞作品賞ノミネート、カンヌ最高賞受賞『落下の解剖学』
【週末シネマ】雪深い山にある家で1人の男性が転落死する。不審な状況から、外国人の妻に夫殺害の容疑がかけられた。これは事件か、事故か。無実を訴える女性を主人公に、サスペンスをはらむ法廷劇にして人の心という謎を深掘りしていく『落下の解剖学』。昨年5月のカンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞し、3月発表のアカデミー賞では作品賞ほか5部門にノミネートされ、監督賞では女性として唯一の候補となったフランスのジュスティーヌ・トリエの作品だ。
・【週末シネマ】肉体は大人、脳は生まれたて、蘇生した女性の冒険を描く衝撃作『哀れなるものたち』
父の転落死を息子が発見、妻である作家に容疑がかけられる
転落発生時に家にいたのは妻で作家のサンドラ、11歳の息子ダニエルと愛犬スヌープ。散歩から帰宅して変わり果てた父サミュエルの姿を発見した息子には視覚障害があり、警察の聴取に対する答えは心許ない。状況から殺人容疑をかけられるサンドラは旧知の弁護士に連絡する。ドイツ出身でフランス語が完ぺきではない彼女は英語で彼とコミュニケーションを取り、「私は殺していない」と明言する。だが何故か、観客はそれを信じきれない。一点の迷いもなく主張しているのに、薄膜が張ったような疑念が終始ついてまわる。映画が幕を開けてすぐ、悲劇が起きる直前に漂っていた不穏な空気を知っているからだ。
夫婦の力関係と本音が露わに
やがてサンドラは起訴され、裁判が始まる。そこから次第に明らかになるのは、おしどり夫婦と思われていたサンドラとサミュエルの関係の実態だ。ベストセラー作家として成功を収める妻に対して、夢敗れて挫折した夫が抱えるコンプレックスと被害者意識。女性と男性のパワーバランスが旧来と逆転するカップルは今や珍しいものではないが、当事者たち、特に男性側の潜在意識は実際どうなのか。審理が進むにつれて、隠されていた夫婦の秘密や嘘ばかりか、むき出しの本音が露わになる。
タイトルにある“落下(Chute)”というフランス語の単語には、転落や落下以外に失敗という意味もある。この映画は、ある夫婦の失敗の解剖を試みる作品であり、その脚本を手がけたのが監督のトリエと彼女のパートナーで『ONODA 一万夜を越えて』のアルチュール・アラリ監督というカップルなのは実に興味深い。
ザンドラ・ヒュラーの存在感が妻への疑念を煽る
サンドラを演じるのは、『さようなら、トニー・エルドマン』などで知られるドイツ出身のザンドラ・ヒュラーだ。今回のアカデミー賞で作品賞ほか5部門ノミネートのイギリス映画『関心領域』(2023年)にも出演する彼女の独特の佇まいが印象的だ。感情を抑制し、法廷でも家庭でも誰にもおもねることのない閉ざされた冷ややかさが、否応なくサンドラへの疑念を煽り立てる。監督の意向で、ヒュラーは主人公が殺人を犯したか否かを知らないまま演じたという。
裁判では唯一の証人として証言台に立つ息子のダニエルを演じるミロ・マシャド・グラネールも、哀しみと不安に揺れる少年を熱演。時にダニエルの目の役割を担うかのような愛犬スヌープの存在も大きい。
映画は、階段を落ちていくボールとそれを追うスヌープの様子から始まる。ボールは弾んで跳ね返りながら、それでもやはり落ちていく。これから起きること、登場人物たちの心が辿る軌跡をあらかじめ示すような描写に引き込まれたら、そこからはもう、1秒たりとも目が離せなくなる。
フランスの法廷の様子はハリウッド映画で馴染みのあるアメリカのシステムと違う。そして裁かれているのはフランス語を母語としない外国人女性。“国際”という要素が強い作品だが、アカデミー賞では国際長編映画賞にノミネートされていない。フランスがエントリー作として本作を選ばなかったのだ。その結果というわけではないが、『落下の解剖学』は作品賞候補の1本に選ばれた。
ここで描かれるのが、どこか異国で起きた転落についてではなく、誰もが自分たちの物語としてとらえ得るという証ではないだろうか。(文:冨永由紀/映画ライター)
『落下の解剖学』は、2024年2月23日より全国順次公開中。
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