83歳の“スパイ”が高齢者施設で潜入捜査、彼の温かな人柄に救われる良作

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83歳のやさしいスパイ
『83歳のやさしいスパイ』
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83歳のやさしいスパイ
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83歳のやさしいスパイ

虐待の有無を調べるために送り込まれた新人スパイを追うドキュメンタリー

【週末シネマ】今年の第93回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門で候補になった『83歳のやさしいスパイ』は、チリの高齢者施設で潜入捜査をすることになった83歳のセルヒオの活動を追うドキュメンタリーだ。

少し前に妻を亡くしたセルヒオは、悲しみをまぎらわすために奇妙な求人に応募する。80歳から90歳の退職者で長期出張が可能、電子機器も扱える男性を募集したのはロムロという私立探偵だった。母親が入居先の施設で虐待されているのではないかと疑う女性の依頼を受けたロムロが、スパイにふさわしい人材を探していたのだ。

・認知症という現実に向き合う男性カップルが旅路の果てに見たものは。

見事選ばれたセルヒオは、心配する実の娘や親族に扮したロムロに付き添われて聖フランシスコ特養ホームに向かい、新規の入居者として滞在し始める。依頼者の心配通り、施設内で虐待や盗難被害が起きているのか? スマートフォンや隠しカメラを使って調査し、証拠を見つけて報告せよ、と命を受けたセルヒオだが、実はスマホの扱いすらままならないのが実情だ。それでも任務を果たすべく、彼はターゲットである女性に気づかれないように観察しては定期的にロムロに報告を続ける。

ハンサムで紳士的なスパイは孤独な入居者たちの王子様に

気づかれないように、と言っても、セルヒオや入居者たちを撮るカメラやスタッフは堂々と存在する。マイテ・アルベルディ監督やスタッフたちは、あらかじめ“高齢者施設の日常を追う”ドキュメンタリーの撮影隊としてセルヒオの到着前から施設の撮影をしていた。施設で圧倒的多数の女性入居者たちは、初めこそカメラの存在を意識するが、すぐに警戒を解いて自由に振舞いだす。そして、ハンサムで紳士的なセルヒオは彼女たちの王子様的な存在になり、彼に本気で恋する女性まで現れる。

新しい生活にすっかり馴染んだセルヒオの調査報告の内容は、本来の任務からどんどん脱線して施設滞在日誌のようになっていく。

施設で何十年も過ごしてきた女性たちの中には、結婚せず子どももいない孤独な境遇の人々が少なくない。そんな彼女たちとセルヒオが何気なく交わす会話が、この映画の最も美しく尊い部分だ。長い間、誰も自分を訪ねてこない寂しさを抱えた1人1人の気持ちをセルヒオは丁寧に受けとめて、思いやりに満ちた言葉を返す。人と人が心を通わす瞬間を監督はシンプルに切り取っている。

83歳のやさしいスパイ

チリの激動期を経験したであろう入居者たちの背景にも思いを巡らせたくなる

一方で明らかに演出されたシーンもある。ロムロが出した求人広告に集まった老人たちとの面接は、言うなれば主演俳優のオーディションであり、そこで抜擢されたのが当時83歳だったセルヒオだ。探偵としてのスキル面では頼りないが、彼に惚れ込んだ監督がロメロを説得して採用させたという。探偵事務所の場面はサスペンス映画のような見せ方で、本作の全てが完全なる実録とは思えないが、セルヒオと事情を知らない入居者や施設スタッフが織りなす小さな世界は、社会が抱える問題の縮図でもある。

認知症の兆しのある入居者もいる。家に帰りたい、母親に迎えにきて欲しいと願う彼女たちは鍵のかかった施設の問の前に立ち、「ここから出して」と通行者に話しかける。門扉の格子から外へ伸びる手を見ると、なんとも言えない気持ちになる。入居者たちの年齢は70代から80代、90代といったところだが、彼らの若かりし日の1970年代のチリはアジェンデ政権、クーデターで独裁者となったピノチェトが支配していた波乱に満ちた時代だ。高齢者たちがどんな経験を背負ってここに来ているのか。そんなこともつい考えたくなってしまう。

誰に対しても分け隔てなく接するセルヒオの温かな人柄が、優しさと孤独についての考察を促す。(文:冨永由紀/映画ライター)

『83歳のやさしいスパイ』は、2021年7月9日より順次公開